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――そのころ、インタビューの予定があっても、きったかちゃんが来るのかどうかもわからない。来ても絶対に1時間くらいの遅刻は普通だったものね。
動けないっていう時期があったからね。その遅刻ネタとかって、昔よく言われたけどね。いいわけするんじゃないけれど、オレはそこに向かっているんだよね(笑)。でも、家から1歩も出られなかったりとかね。
20代は、それを乗り越えていったよね。それなのに、スタジオに入ると、自分の想像すら超えるいいギターを弾いちゃったりするんだよねぇ。だから、“なるほど、ミュージシャンとして活動していくためのカルマ(業)みたいなものを与えられたのかな”って思って。
いちばん最初に発症しちゃったのはオレだったんだけれど、みんながそういうところを持っていて、ほとんど同時に大槻も発症しちゃってね。あるとき、楽屋で本番まえに言ったよ。「大槻、じつはオレつらいんだよ」って。そしたら「オレもだよ」って。「でも、オレたちはこうだから、こういう表現ができるんだよね」って、同級生が本番前の楽屋で、ポツリと言ったんだよね。
あまり、おたがいのことを褒めたたえたりはしないバンドだったけど、あのときはおたがいに支えあったよ。その日以来、同病のお客さんたちにも囲まれて、それはそれは盛り上がったよ(笑)。ホント、ファンも一緒に強くなったよ。
――もともとのファンたちも、そういうものを内包していたからね。
いわゆるカウンターな生きかたをしているような人たちが多かったけれど、そういう生きかたをせざるをえなかったりするんだよね。へヴィ・メタルなんていう生きかただって、80年代には長髪差別がまだあって、働くところもなかったりして、20代後半のお兄さんでもビラ配りのアルバイトとかしながら、がんばってバンドをやっていたりしたしね。そういう意味では、真ん中を歩きたいんだけれど、世の中がカウンターしか歩かせてくれないわけだよね。
――でも、本人がカウンターな生きかたを選んでるんだからしょうがない。
だからこそ、音楽にしても力強い表現になるよ。で、“病気で精神的にヘヴィだから、ちょっと休もうか”とか、“最近、少しマンネリ気味だな”とかって思うようなことがあって、ちょっと休んでみたりもしたよね。それで、みんながまた集まったときに、いい刺激になるんじゃないかっていうこともあって、いわゆるソロ活動っていうもので、ユーフォリアっていうものをやってみたりとかね。
結局、ソロ活動っていっても、オレと大槻しかやらなかったんだけどね。
――あとは、サバイバル・ゲームとかして遊んでいるメンバーがいたりとかね(笑)。
それはそれで、内田にとってすごくよかったんじゃないかと思うけれどね。なんと、2年間も遊び続けたメンバーもいたんだから、スゴイよね。ある意味、それが筋少を偉大なものにしたよ。マネージメントも偉かったね。そんなオレたちにギャラを払い続けたんだからね(笑)。
――いまなら、1年くらい働いて、次の1年をソロ活動したり、充電っていう名目で遊んでいたりっていうバンドが、ふつうになってきたけどね。
いいことだと思うよ。
インタビュー収録日 2005年9月
Vol.4に続く |
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